あーとらいふのススメ

これからの時代、IOTやAIなどデイ四次産業革命が一層進展します。一方、急激な変革の中でこれまで以上にメンタル面でヒトへの影響が懸念されます。 生活にアートを取り入れながらワクワクする快適な生活に向けてお役に立つブログにしたいと思います。

学問のすすめ

今回は、私たちがお札の中で大好きな福沢諭吉先生の『学問のすすめ』について纏めてみました。

福沢諭吉先生は「独立自尊」を唱え、「独立」と「実学」と「自由」と、それを踏まえた「合理主義」でした。
この精神さえ実行できれば、何ものも恐れるることはないと、同時に、我々凡人が立派な社会人となるための原理が、この一冊の中に詰め込まれています。

・人生を決定づける差とは
あまりにも有名な冒頭の言葉、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」、この核心部分はズキンときます。
人間は生まれた時は確かに平等であるが、社会を見渡すと金持ちもいれば貧乏人もいる、賢人もいれば愚人もいる、身分の高い人も低い人もいる、このような不平等はいったいどこから生まれてくるのだろうか。と現実社会の格差を見せ、「それはただ、その人に学問の力があるかないかによって決まる」と明快な答えです。
諺に『天は富貴を人に与えず、これを人の働きに与うるものなり』とある。天は、人間の活力・労働の結果を見て富を与える、という意味です。もともと人間には差はない。学問に励み、物事をよく知った者は偉くなり富に栄え、無学なものは貧しく身分の低い人間になる、と実に分かりやすく、これを読むと「やっぱり学問をしなければダメなのか」と思わざるを得なくなります。
この本、もっと早くに読んでいたら人生も変わっていたのでしょうかね。

・「一身独立して一国独立す」
国民一人ひとりが独立し、賢くなることが国家の近代化と繁栄をもたらすものだという考えです。学問はそのための手段であり、そのことによって経済と精神 の基盤を両立させ、他人に依頼することのない独立心を養い、社会の発展に寄与する生き方ができることを提唱しています。いわばこれこそ、人の世を生き抜く根本精神であるといえます。
では、独立心がない者はどうなるのか。
ここからの決めゼリフです。「独立の精神がない者は、必ず他人を当てにし、他人を当てにする者は、必ず他人を恐れる。他人を恐れる者は必ず他人に媚びへつらう者となる。いつも他人を恐れ、媚びへつらう者は、いつしかこれが習慣となって、その面(ツラ)の皮が厚くなり、恥知らずの人間になる。」なんと、手厳しい。

・いつの世も変わらない原理原則
「自由と我がままの違いは、他人を妨げるかどうかにある」と説明して、次のような話をしています。「自分の金だから、酒を飲み、色遊びをして女に溺れても、自分の自由だと考えるのはおかしい。酒と色に溺れる遊びは、他人に影響し、友人を誘惑し、社会教育を妨げる。お金はその人間のものだとしても、社会に与えた罪を許すわけにはいかない、自由には程度というものがある」というのです。そして、「自由とは自分の分限(程度・立場)をよく心得、天の定めた道理に基づき、人間の情を大事にして、他人を妨げず、一身の自由を守ることである。さらに、「もし、この独立と自由を邪魔するものがあれば、世界万国を敵に回しても恐れること
はない。ましてや政府の役人などにも遠慮することはない。そのためにも人は学問をして才能と人格を磨くことが何よりも大切なのである」

・人間は「人望ある人」にならなければならない
「人望あってこそ大きな仕事もできる。誰もが『あの人は立派だ。頼もしい人だ。この仕事を任せても成功させてくれる』と、その人の人柄を頼もしく思い、期待される人物を人望のある人という。人間社会には人望のある人の大小はあるものの、ふだんから人に当てにされるような人物でなければ、ひとかどの人間とはいえない。
では、一身に備わった自分の本質を活かして、社会の為に役立てるにはどうすればよいのか。
まず第一に、言葉の使い方を学ばなければならない。文字を書いて意思を通じさせるのは有力な表現の手段である。だが、相手に自分の意思を伝えるには、言葉をもって話すほど有力なものはない。

第二は、明るく元気な顔で、人から嫌われないようにすべきである。人の顔は家に例えれば玄関のようなもので、人と広く付き合うには門戸を開き、入口を清潔にし、客が自由に入ってこられるようにしていることが大事である。
考えてもみよ。本当の友人はそう簡単にできるものではない。友人を得たいのならば、まず人を好きになること。
世間には人間が溢れているが、人は鬼でもなければ蛇でもない。恐れず、遠慮しないで、心情を丸出しにして素直に付き合うべきだ。決して人を毛嫌いするような人間にはなるな。」
ごもっともでございます。

独立自尊を貫いた立派さ
自尊の精神でいえば、明治の偉勲(イクン)たちが男の甲斐性といって妾を持つことを当然のようにしていたが、彼は夫婦の尊厳を保つ意味から、妻の身を愛し、浮気さえしなかったそうです。
さらには、これが最も関心なことですが、福沢先生は少年のころから人を呼び捨てにすることなく、「さん付け」で呼んだそうです。「くん付け」をしたがる人は、権威に屈服しやすく、下の者には尊大で、威厳を振りかざす人と見てよいのだそうです。独立自尊。この精神こそ、現代にあっても変わらず学ぶべき教えです。